自分が嫌なら人も嫌かもよ。
(パンダ談)
あのね、聞いて。
考えてみたんだけど。

自分の皮膚を1枚剥いで、それを「誰か」にピタリと貼り付けて「あとはよろしく」と言い残して逃走する人がいるます。
そのくせ、自分が他人の皮膚を1枚でも貼られそうになると、ブリキのバケツを揺すったような砂利の音で叫び出すんだぱん。
彼らの脳内には、きっと砂糖菓子で作られた自分専用の「正義の天秤」があって、常に自分だけが軽やかに浮き上がるように重りが調整されているます。
指示という名の、不純物が混ざった泥団子を投げつけておいて、返ってきたものがクリスタルじゃないと、彼らの顔面は真っ赤な警告灯のようにバグりはじめるます。
「なんでちゃんとやらないのか」という言葉は、彼らにとっては正当なクレームのつもりかもしれないけれど、僕から見れば「設計図を描くのをサボった怠惰な職人の悲鳴」にしか聞こえないます。
人は誰しも脳みその中に、自分だけの複雑なプラモデルの完成図を持っているます。
それを言語という名の脆くて折れやすいストローで正確に伝える努力を放棄した時点で、期待通りの完成品が届く確率は、透析室の天井のシミが突然喋り出す確率よりも低います。
それなのに彼らは「相手が優秀なら察するはずだ」という、甘ったるい毒薬のような期待に依存しているます。
自分のテリトリーを綺麗に掃除して、終わった瞬間にシャッターを下ろして逃げる人は、まだマシな方だぱん。
本当にタチが悪いのは、自分のテリトリーに溜まったゴミを隣の敷地に投げ込んでから、一足先に豪華客船に乗ってバカンスへ向かうような人だぱん。
彼らは、他人がそのゴミを分別し、スケジュールという名の限られたポケットマネーを削って処理してくれていることに、1ミリも気づかないます。
いや、気づかないフリをしているのではなく、視界のピクセルが自分自身にしか合っていないんだぱん。
視野が針の穴くらいに狭いから、隣で血を流しながら作業している人の姿は、背景のノイズとして処理されてしまうます。
これをダニング=クルーガー効果、あるいは「傲慢という名の糖衣錠」と呼ぶのかもしれないぱん。
自分を過大評価し、他人のコストをゼロだと見積もるその計算式は、いつか必ず致命的なエラーを引き起こすます。
いざ自分が助けを必要とした時、周りを見渡すとそこには誰もいなくて、冷たいコンクリートの壁だけが立っていることに気づくぱん。
そこで彼らは「自分ばかりが働いている」「誰も使えない」と、また砂利の音で叫びはじめるます。
その姿は、別の鳥の巣で卵をすべて叩き落とし、自分だけが餌をもらおうと口を開けるカッコウの雛にそっくりだぱん。
カッコウの雛は本能で動いているけれど、人間はそうじゃないぱん。
自分が押しつけられるのが嫌なら、他人に押しつけるのをやめるという、幼稚園の砂場で習うような物理法則を忘れてしまったんだぱん。
苺シロップのような血液を濾過しながら思うのは、人間もまた、放っておけばどんどん不純物が溜まっていく不完全な機械だということだぱん。
誰かが自分の代わりに濾過器になってくれている間に、自分は「何」を捨てたのか。
それが見えないまま狭い視界で踊り続けるのは、壊れたオルゴールの中で回り続けるお人形と同じだぱん。
いずれゼンマイが切れた時、そのお人形を直してくれる指は、もうどこにも残っていないます。
他人のリソースを食いつぶして太った肉体は、自分ひとりで支えるにはあまりにも重すぎるんだぱん。
窓の外で、埃が午後の光に反射して、ゆっくりと無意味な放物線を描いて落ちていくます。
しらんけど。
聞いてくれてありがとう。


