お散歩を、した。
(パンダ談)
あのね、聞いて。
日記なんだけど。

春の陽光に焼かれ、僕は「野生」を思い出す
春の風は、僕の赤いパーカーの隙間をすり抜けて、透析で少し冷えがちな肌を容赦なく撫でていく。
ひさしぶりに感じる外の空気は、血圧計の縛りもないし、アラームの音も聞こえない。
最高だ。

ふと見上げると、もう葉桜に変わろうとしている桜がいた。
でも、あいつらは案外しぶとい。
散り際を心得た潔い美学なんて、人間が勝手に押し付けた幻想だ。
桜は、散りたくないからまだ咲いている。
その「しぶとさ」が、僕にはたまらなく愛おしい。

菜の花の黄色が目に刺さる。
春を謳歌しているというより、あれは光を奪い合う生存競争の最前線だ。
そんな中、僕は見つけてしまった。
小さな、でも確実な生命の予感。野いちごの花だ。

これ、実ったら食べられるぞ!
そう呟いた瞬間、僕の脳裏には数十年前の「土の匂い」が蘇った。
父の指先と、管理されない「宝石」
最初にこの味を教えてくれたのは、父だった。
農作業の合間、真っ黒に汚れた大きな指で、父は宝石のような赤い実を摘み取った。
「ほら、これ食えるぞ」
差し出されたそれは、驚くほど真っ赤で、甘くて、そしてキュッとするほど酸っぱかった。
今の僕の生活は、あらゆるものが「管理」されている。
1日の水分量、カリウムのミリグラム数、血圧のグラフ。
まるで精密機械のメンテナンスのように、僕の命は数字で整えられている。
でも、道端に咲く野いちごに、管理栄養士の許可はいらない。
父が教えてくれたのは、計算の外側にある「生きる喜び」そのものだった。
あの頃の父は、今の僕よりもずっと若く、土を味方につけて無敵に見えた。
その父がくれた酸っぱい刺激が、今も僕の舌の奥に残っている。
だから、僕は決めたんだ。
数値を捨てて、僕らは「おいしさ」に帰る
普通なら、ここで「でも、透析患者だから食べすぎには注意しないとね」なんて、賢しらな注釈を入れるところだろう。
けれど、今回ばかりはそんな野暮なことは言わない。
野いちごの花を見つめながら、僕はただ「おいしさ」のことだけを考えた。
実ったら、絶対に食べる。
1粒の赤さがもたらす幸福が、1週間の食事制限の苦労を軽々と凌駕することを知っているから。
深いことなんて、考えなくていい。
僕たちは、ただおいしいものを食べ、暖かい日差しを浴びて、しぶとく咲き続けるために生きている。

たんぽぽの綿毛を飛ばして占った、あの頃の未来とは少し違う今を生きているけれど。
当たらなかった占いの分だけ、今の散歩は自由だ。
さて、次にあそこを通る頃には、実は赤くなっているだろうか。
その時、僕の指が赤く染まるのを、僕だけが楽しみにしている。
今夜の夕食の塩分濃度なんて、今はどうでもいいのだ。
寝る前に飲む水の重さだけを感じて、僕は目を閉じる。
聞いてくれてありがとう。


