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タケノコになり損ねた僕に、それでも豆乳はやさしいのだった

なう
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豆腐屋の親戚がいたせいか、僕の血潮にはいくらかの豆乳がまざっている気がする。
幼い頃、大きな食品メーカーだったその親戚の「うさぎのマーク」をスーパーで見つけるたび、僕はまるで未知の文明を発見した考古学者のようにキャッキャと喜ぶ子供だった。
棚に並ぶ類似商品からうさちゃんマークを見つけるスーパーでの宝物さがしは、まるで発掘調査だったのだ。

そんな僕の思い出の形は、少しヘンテコだ。
二つの個体が離れ離れになったパピコのような、自立することを諦めたボウリングのピンのような、不思議なビニール容器に入った豆乳。
一度飲み始めたら最後、机に置くことすら許されないその傲慢な設計。
コップに移すという知性を放棄し、野生のごとく一気に吸い尽くす時間は、何物にも代えがたい贅沢な体験だった。
僕にとっての「正しい豆乳」は、いつだってこの歪な形をしていた。

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けれど、時の流れは残酷で。
かつてはどこのスーパーでも見かけた親戚の会社は事業をログアウトし。
メーカーが違っても、我こそが豆乳だと我が物顔で並んでいたその形も、今では絶滅危惧種のレッドリストに載せられているのかと思うくらい見かけなくなってしまった。
今は、四角い紙パックに閉じ込められた優等生たちが、自立した顔でストローを差し出している。
世界は美しく整いすぎている。

だから先日、棚の隅で起き上がることのできないそのボウリングのピンと再会したとき、僕は心の中でまるでストライクを決めたかのように激しくぴょんぴょんした。
周囲の視線という名の常識のビームを無視して、速やかにその白い幸せをカゴへ拉致した。

僕も、数字の上ではいい大人になった。
中身も今頃は高級な絹ごし豆腐のように重厚で、洗練されているはずだった。
けれど実際はどうだろう。
鏡に映るのは、中身がスカスカで脂ぎった油揚げのような自分だ。
タケノコのように天を突く勢いで成長する予定だったのに、どこかで光合成をサボり、ただ加齢という名のカビを培養しているだけ。
その中で熟成は行われているのだろうか。

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それでも、この豆乳の甘さだけは変わらない。
僕のような成れの果てにも優しい。
ひとくち飲めば、あの頃の優しさが喉を通って、汚れた内臓をそっと撫でてくれる。

思い出はいつだって美しく、子供の頃の無邪気な想いを蘇らせてくれる。
現在の自分がいかに救いようのない存在かを鮮やかに突きつけてくれる。
結局、僕が救いを求めているのは「味」ではなく「自分がまだ無邪気でいられた頃の記憶」なんだろう。
そんな過去の出がらしに縋り付いて生きる自分を、この白い液体だけは許してくれる気がする。
いいことを言ったような気がして少し満足しているけれど、それは単に糖分が脳に回っただけの錯覚かもね。

親戚は亡くなった。
商品もなくなった。
けれど、思い出は輝き続ける。

ちなみに原材料の大豆だけど、実は「畑の肉」なんて呼ばれながら植物界ではかなり陰湿な生存戦略を持ってたりするんだぱん。
大豆に含まれるサポニンやレクチンといった成分は、本来は外敵に食べられないための毒物。
つまり、僕たちが「健康的〜」と喜んで飲んでいるのは、植物が必死に抵抗した末の「拒絶の結晶」なんだぱん。
無理やり搾り取った液体を、おいしいおいしいと喉を鳴らすのが人間という生き物。
僕も君も大豆の犠牲の上に成り立つその白い液体で、せっせと自分の延命を図ればいいだぱん。

冷えた豆乳のパックが、結露でじっとりと濡れている。

しらんけど。


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